豊かな散歩は、両耳から生えるイヤフォンを愛でるところから始まる。次第に、ベッドルームポップの通奏低音のシンセサイザーで身体が軽くなったように錯覚しているうちに、ベースとドラムの気怠げなセックスのピストン運動に合わせて、歩を進めていく。
しばらくはそうやって絡み合いながら歩く。
絡み合いながら歩くとき、その絡むことの停滞とその歩くことの未来がごちゃごちゃになって、涙が出そうになる。誇張だけど。
音のエロスに魅入られて歩みを止めるかそうしないかでだいぶ悩んでいるうちに、なんか歩いちゃってる、みたいな、諦めともつかない、自己の中だけで完結した因果がそこにはある。
この、自己だけで、三島由紀夫の小説に出てくる青年描写のような心理の自家撞着や自己矛盾の興味深い一例を生み出して、止まりそうな自分と進みたがる自分との間でほんとうの“ジブン”が置いていかれそうなる状態に至ることこそが、散歩の最も賛美するべき点だと、わたしは考えている。
さてわたしの散歩は、自分の中でひとつ、その散歩という行為に対して何かテーマを決めたり、ひとつナラティブを付与したりするのが特上の醍醐味である。
ある日は、縁石のそのダイナミズムに、またある日は、標識のミステリアスに、視界を預け、別の日には、行き交う人々を「彼らは皆未亡人である」という設定のもとにわたしとすれ違わせて、「彼らとその街の温度」と、「そこをわたしが歩いている状況」を思って、空想のストーリーを楽しむ。あるいは、悲しむ。
それから、わたしは散歩の際、何かを見つけても、それをじっくりとは見ないようにしているし、見ないようになってしまっている。
サッと目を通した摩訶不思議な街の中のあれこれを、脳内に転写させて、それを、歩きながらいじくりまわすのがたいへん性癖をくすぐるからだ。
今見たモチーフに、今見た風景に、今見た関係性に、今見た空気に、、、それの過去と未来のナラティブと、現在の心境(魂の状態)とをわがまま勝手に想像して、転写したそれを歪めたり破ったり繋ぎ合わせたり裏っ返したり濡らしてみたり敷いてみたり、、
サッと目を通して、一瞬で転写したそのボヤけた映像(記憶)をいじくりまわす遊戯は、わたしがセンターバックから刺された鋭い縦パスをトラップする直前刹那、背後に目配せをしたときに、サイドバックを引き出した後に、裏へダッシュしようとしている仲間の、そのアジリティのうちの“ジリ”くらいを、微かに、辛うじて、目の端にとらえて転写してから、ヤツまでの距離感とヤツのスピードとを想像してワントラップでターンした後に、すぐに、なるべくすぐに、スルーパスを送るための意識の、その名残なのかもしれない。
そういう、瞬発の、妥当性の高い想定意識のもとにやっていると聞くと、「当然の未来」や「正解の過去」しか想像できなさそうに感じ、その平坦さ、のっぺらぼうさに読者各位は、「なんて退屈でつまらない一辺倒なイマジネーションなんだ」と思われるかもしれない。
が、ここでおもしろいのが、散歩というものの特性上、やっぱり我々はどうしても歩いてしまうから、そうやって仕方がなく歩いてしまっているうちに移り変わっていく景色というアトランダムなノイズ(あるいはバックグラウンドミュージック)の中から、イマジネーションを連鎖させていくためのキーアイテム(アイテムと書いたが、これはアトモスフィアでありリレーションでありコンテクストである)を見つけ出し、それらを使って、想像主以外には、誰も観測し得ない奇跡/偶然のナラティブを付与する、という散歩特有の想像方法の特異性がある、ということだ。
「奇怪な貌の柳」を見つけたら、その未来(や過去や現在)の想像に、歩いて移り変わった果ての景色にある「灰色のじゃり道に舞う蝶」と「昼下がりの橙と差し色の黄緑のイメージ」とを混ぜてみて出来上がったレンズ、を覗いていったん想像してみる、という試み。
シュルレアリスムにおけるオートマティズムのような方法の積み重ね。そうやってさまざまなキーアイテムが複雑に特殊に絡み合った要素を生み、それを過去と未来のナラティブとして昇華させる営みは、絡み合いと単なる羅列による停滞の側面と、歩みながらそれらを並べ替える未来へのベクトルの側面を持つ。
なので、そうやってやはり、それぞれ反対側に弾き出されようとする二つの自分によって、“ジブン”が真ん中に置いていかれそうなる、そんな散歩の極地へと試みの快楽と反復は収束していく。
そういう散歩のささやかでいて贅沢な楽しみ方のひとつをここに独白する(した)。
読者各位がこの拙文をおもしろがってくれたら幸いだし、なぞって試みてくれたらこれ以上幸いなことはない。
っていう所感、そういう雑文。
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