「教養のある人が正しい解釈をするためだけの作品、本当に意味がない。」
バイト中の暇な時間を持て余しているときに、ふと、白紙に書き留めた。こう書き留めたのは、当時Twitter上で映画:サブスタンスについてのあらゆる言説(あらゆる、ではなかったかもしれない)が見られていたから。
公開前は観に行こうかなってだいぶ好意的にこの映画を捉えていたのだけど、インターネットで感想などが流れてくるうちに、行かなくていいかな、どころではなく、行きたくない、とさえ思うようになってしまった。
なんでそう思ったのか自分でも不思議だっから知りたい。ってなったので、自分の中でこのモヤモヤが言語化される前に、紙面上にぽとりと落とされてしまった開幕の一節を読み解いて、感覚を理性で遡上していくことで理解にリーチしよう、と思ったから書いています。
あ、それと、こんな途中でなんですが、わたしはそもそもこの映画を観ていないし、だから内容とかも知らなくて、空気感とか手触りだけを頼りにうだうだとモノを言っています。映画批評じゃなくてこれはわたしの感覚的なところについての所感なので、ご容赦していただけるとありがたい。です
まず、わたしは最初「本当に意味がない」と言っているけれど、違いますね、これ。サブスタンスにわたしが感じる違和感は「意味しかないこと、意味がありすぎること、意味を他の要素が超えていないこと」にある。気がする。
わたしはこの「意味しかないな」って感覚を『関心領域』にも感じてて。どっちもSNSでの感想が一辺倒でそそられなかった。ってまずは思ったんだけど、これも多分違う。これは鑑賞者の責任ではなくて、映画の作り手の責任だと思うんです。どういうことか説明したいから、ちょっと寄り道させてほしい。急がば回れだから。
サブスタンスのTwitter上での賑わいの中で、悪い風にスポットライトを当てられた映画評論家がいる。宇野維正って方なんですけど。彼がサブスタンスの公式ホームページに寄稿したコメントが、アナウンサーの宇垣美里のコメントと比べられて非難を受けていた。
キューブリック、デ・パルマ、クローネンバーグなどなど。
名作のオマージュをここまで過剰にぶち込むと破綻しそうなものだが、
『サブスタンス』は最初から最後まで100%の精度で監督の狙い通りにキマっていく。
この作品の唯一の欠点は、完璧すぎるところだ。
わたしにはなぜこのコメントが非難を受けるのかわからない。サブスタンスの特性をこれでもかというくらい捉えていると感じる。
そうなんです。この映画の欠点は「完璧すぎるところ」。監督の思惑が全てダイレクトに、鑑賞者一人ひとりの独自解釈や実生活との接続などを挟まずに、狙い通りにキマって(しまって)いるところ。
関心領域も、思えばそうではありませんでした?そういう風に観てくださいね、という「鑑賞の型」が存在していて、それにそぐわないかたちで観てしまうと、なにも「意味」を受け取れない。懐(ふところ)がない。
構造としての「美醜に不寛容な社会、メイルゲイズ」を展開が暴く。
歴史としての「アウシュビッツで行われる殺人、それに関心のない上流階級」を描写が暴く。
この直線的な前提と開示だけが意味過剰な映画の「解釈」で、その流れに乗らずには「意味」を認めることができないために、監督の意図に乗っかってダイレクトにキメられるしかない。そんな受動的な鑑賞。懐がない。
「教養のある人が正しい解釈をするためだけの作品、本当に懐がない。」
こっちにしよう。
意味しかない、というのは窮屈で不自由で、懐がない。
懐のある映画は思考が飛ぶ。思案が咲く。
そうなってしまえば解釈は第四の壁を飛び越えて、わたしを中心として経験されてきた、あるいは経験されるであろう世界全体へと拡散していく。
そこに豊かさとも贅沢さともつかない何かを感じる。
懐のない映画は“わたし”が鑑賞する必要を感じない。遠くで鳴らされている警笛が聞こえてしまえば、それ以上はもう何もなく、警戒するだけ。逃げるだけ。あるいは挑むだけ。オーケストラを率いてこころを震わせることではなく、警笛を鳴らすことで社会しか震わせない監督に責任がある。
こうまとめると、宇野の言及しているあらゆる作品のオマージュについても考えてみたくなる。
言ってしまえば、このような「意味の映画」では芸術の部分は色彩と構図に任せられている。それらだけに。
「懐の映画」には感情や関係、解釈の中に芸術が潜んでいる。それを自分ごととして手探りで探し当てることの中に、その行為自体にわたしたちは芸術を認める。
解釈の方向がもう決まっていて、感情や関係が構図化されている作品はそのような楽しみがない。発表会を観ているような気持ちになる。もうある楽曲の変奏にとどまって、新しい音を聴くことがない。解釈に芸術の無い作品は、やれビビッドな色遣いだの、やれ斬新な構図だのを用意することで、芸術の皮をかぶっている。
わたしたちはキューブリックにもデ・パルマにもクローネンバーグにも新しい音を見つけたが、その音をサンプリングしただけの画面は、「芸術ですよ、これは」って、映画賞に沿って評価されるための要素の担保のために、文脈を知っている人に情報として芸術を提出しているだけに思える。
…
だいぶ感覚的で衝動的な所感だが、理解者もいるって信じてたりする。わたしは映画において、芸術において懐を信奉します。あなたはなにを信奉しますか。
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