なま日記 #1そんなもん

今年の5月。免許合宿の都合で山形の宿に二週間泊まることになった。どうやら随分時間があるらしい、何かしたい、そうだ、前に一度思い立ったけど断念したアレをやってみよう、そんな軽い気持ちで作ったのがこのサイト。高校で仲良くしていた友達と何かできる場があれば面白いかな、と思って作った。けど、ヘッダーやらアイコンやらコンセプトやら、決めなきゃ行けないことが沢山出てきて、ああもうめんどくせぇなって感じで、合宿から帰る頃にはもう正直どうでも良くなっていた。結局そんなもんなのだ。

時は流れて10月。別にあの時放り投げた面倒ごとは何も解決してないけど、とりあえずワッと公開して、好きにミャアミャア文章のっけてみたら良いじゃん、そしたら後から全部ついてくるだろ、と吹っ切れた。それは、友人Aの大学の先輩の音楽への向き合い方だったり、友人Bの姉の話だったり、友人Cに誘われるがままついて行ったライブでのパフォーマンスだったりに、どこかで感化された結果であるということも、いつかタラタラ書き留めておきたいと思っている。

とにかく、少しの間自分はここに文章書いて載っけます。

打倒、ダウンタウン+!!

追記

このサイトを作った時、最初に乗っけようとしていた文章を置いておきます。今読み返すと、恐ろしすぎて笑えてくる。何言ってるんだ、特に後半からの展開。何かに怒っていたことだけは覚えている。あと、最後の一文、今さっき書いた文章にもおんなじフレーズがあって怖い。くるりの好きな曲からの引用なのだけど、そんなことある?今後はもっと地に足ついた普通の文章を書きます。

以下

田舎特有の、やけに広い車道の端に敷かれた、やけに広い歩道をいつもと変わらぬの身体で歩く。用水路を流れる水の音、行きついた水が一面を張っている田のまばらなイネの緑、それらを全てを通過してきた風の匂いが、無意識に選択した歩幅に合わせてダウンロードされていく。山形県赤湯市、二週間にわたる運転免許取得のため合宿、三日目。時間に余裕ができた時は街に出て散歩すると決めていて、その日は近くにあるという熊野神社を目指して歩いていた。    

最初に美化した風景にはもう飽きて、それが田舎の風景というもので、いつの間にかイヤホンをつけお決まりのポッドキャストを聞いていると一軒の木造の本屋が目に留まる。 

綺麗に舗装された道路にうまくなじめていない古びた外装。温もりを失ったくすんだ木目が静かに泳いでいる店内。おばあさんがレジを跨いだ奥の生活空間から遅れてやってくる。店内の様子とは反して最新のカラフルな雑誌が並べられた棚のギャップに歴史の経過を感じる。一周回ったのち、途中何度か目が合い気まずくなったおばあさんにここら一帯のことについて聞いてみることにした。するとさっそく熊野神社の名が挙がり、縁結びにご利益があること、今は閑散としているが時期によっては観光客で賑わっていることを教えてもらった。

青木マリコ病が発症したのか若干の便意を催すが、そいつをやさしくなだめ目の前のコンビニをスルー。大鳥居をくぐり、参道は山の麓へと続き、山道になっていく。一段が厄介なほどに厚い階段に差し掛かる。本殿裏に、見つけると良縁に恵まれるという隠し彫りされた三匹のウサギが居るだとか、友人が言う「おみくじは意味ない」だとかを考えながらひたすら上っていく。そういえば「ペットって意味がないと思う」とかも言っていたな。とにかく考える。足をあげる。意地でも進む。あぁ、でもやっぱり誤魔化しきれない。そうだよな。後悔。上りきる頃にはさっき無視した便意がこんにちわ。神様、Sayonara I’m gone.

大して本殿を拝めることもなくすぐに折り返している自分、意味がない。階段を降りてすぐの公衆便所に寄るが、ドアに虫が止まっている。生きるシステムがどこにあるかわからない細い虫。だけどこいつのほうがよっぽど生きることに真剣なんだろう。渋々追い払って中に入る。詰まり溜まった水の中にトイレットペーパーが湯葉のように浮いている便器。これじゃあ使えない。仕方なく、先ほどのコンビニまで戻ることにした。

大鳥居がこちらを見下ろし呆れている。正直、この便意が解決しても、また戻って神様に縁結びを願う気力はない。コンビニに着くと、おそらくまだランドセルを背負う必要のないこと少年が、「こんにちはー元気ー?」と言って手を振りすぐに店内に入っていった。申し訳なさそうに頭を下げて子を追う母親。瞬間、僕は晴れた顔してトイレへと向かう。あぁ可愛らしい。あの一瞬でこんな縁を結んでくれたんだ、お礼をしにもう一度参拝しよう。用を足し、気分よく店内をぐるり、一番安い水を買って出ていく。

これは僕の日常におけるささやかな幸せ。便意に翻弄された無駄な時間、少年の無邪気なあいさつに流されて全部を肯定してしまう軽薄、僕だけが理解し得るそのままの幸せ。ここまで読んでもらってなんだけど、あなたには僕の幸せの話なんてどうでもいいと思ってほしい。或いは、みんながそれぞれに一日の一瞬を幸せだと思える余裕があってほしい。

そして改めて、こんなものはその瞬間にパクっと口に入れて楽しむくらいがちょうど良いとなるべきだ。この”些細さ”に本当があるかのようにとたくさんの言葉で尽くして愛でたりしてしまうと、かえって輪郭はぼやけ、現実からは遠ざかってつまらなくなる。ついには、ふとした瞬間に立ち止まった時、上滑りなストーリーテラーになっていること気づき、自分を紛らわしていただけだって不安になる。

自分の生活との距離の取り方、他人の生活との距離の取り方。微妙にかみ合わず立ち行かなくなっているときは、特にその感覚が分からなくなる。アコースティックギターをもったアーティストのいう生活だってほんとは嘘で、あなたのそれもすべてではないはず。とにかく走っていたい。意味なんて後から勝手についてくる。

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